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『蛍』 クレフの姿は探すまでもなく見つかった。中庭の東屋で蛍狩りをしていた。暮夜の闇の中で、その東屋だけがぽっかりと浮き上がっているように見える。幻想的なさまにわれ知らず見惚れていたが、ふとわれに返ると、手に持っていたものを胸元に収めて彼のもとへ歩み寄った。 「きれいですわ」 「……プレセア」 クレフは別の蛍に伸ばしかけていた手を止め、静かにほほ笑んだ。プレセアが行ったことで、何匹かの蛍が東屋から離れていったが、ほとんどはまだクレフのそばで憩っていた。 イブニングドレスの裾を軽く持ち、東屋に腰を下ろす。すると一匹の蛍がどこからともなく寄ってきて、真白のドレスに彩を添えた。 「よいのか、このようなところにいて」 プレセアが顔を上げると、クレフは眉尻を下げて苦笑した。彼が首を竦めたとき、額のサークレットが蛍の輝きを集めて七色に輝いた。 「さすがに今日は、私も仕事を頼んだ覚えはないぞ」 愚直なのか真面目すぎるのか、それとも鈍感なふりをしているのか。おそらく全部当てはまるのだろうと思いながら、プレセアは笑みを刷いた。 「彼は自分の国へ帰りましたわ。宴はもう終わりです」 さして驚いた風でもないクレフの様子は、プレセアの見立てが間違っていなかったことの証明だった。クレフは徐に視線を外すと、そうか、と呟き、小さく口笛を吹いた。呼ばれた蛍たちが、クレフの周りを揺蕩う。まるで父と子のようだった。 「しかし、おまえも物好きだな。添い遂げると決めた相手と、週に一度しか会わない生活を選ぶとは」 「お互い納得した上でのことですわ。彼には彼の、私には私の仕事がありますから。異世界では『シュウマツコン』といって、そう珍しいことでもないそうですよ」 「……一口に添い遂げると言っても、いろいろな形があるということか」 クレフは一瞬眉間に皺を寄せたが、すぐに穏やかな色を取り戻し、目で蛍を追いかけながらほほ笑んだ。 「どのような形であれ、おまえが幸せであるならば、私が言うことは何もない」 「次はあなたの番ですわ」 さっとクレフの横顔に緊張が走る。敏感に感じ取った数匹の蛍が、彼から離れて霧散した。 「もう言い訳はできませんわよ。今までは私がいましたから、私の幸せを見届けるまでは、という建前を使うことができたかもしれませんが、その私も今日、あのひとと結婚式を挙げました。もう、あなたがご自分の幸せを後回しにする理由は、なくなりました」 クレフがはっと振り向いた。 「まさかおまえ、そのために――」 「誤解なさらないでください」とプレセアは彼を遮った。「あなたのために結婚を決めたのではありませんわ。私は、ちゃんと、あのひとを愛おしく思っています」 クレフは一瞬、なおも何か言いたそうに身を乗り出したが、結局何も言うことなくすっと引いた。同時に視線もプレセアから離れていく。横顔に落ちた影をごまかせないところに、彼の誠実さを思う。こういうところが、好きだった。 「もしもあなたを傷つける人がいたら、たとえ誰であっても赦さない。ずっと、そう思っていました」 クレフが再びこちらを向いた。そのときの表情を見て、初めて彼のことを幼いと思った。プレセアは目を細め、おもねるように笑った。 「そんなあなたのことを、嫌いになりたくないんです。だから、私の大好きな人を泣かせたり、しないでください」 クレフの蒼い双眸が大きく見開かれる。彼の視線はプレセアを捉えているのではなかった。もうそれ以上、プレセアがその場にいる意味はなかった。遠く背後で草を踏む音を聞き、プレセアは静かに立ち上がった。 「私が呼んだんです、話したいことがあると言って」 そう言って、プレセアは自分の胸元をトントンと軽く叩いた。新しく作った通信機は、ちゃんとその役割を果たしてくれたようだ。 クレフは狼狽を滲ませた瞳でプレセアを見た。確かに迷っている人間の目だったが、答えに迷っているのではなく伝え方に迷っているのだと信じたかった。 「結婚式には、必ず呼んでくださいますわね?」 返事を待たずにプレセアはクレフに背を向けた。中庭の入り口で海が立ち尽くしている。プレセアはゆっくりと彼女に歩み寄ると、そっとその背中を押した。 「行って」 まるで今にも泣き出しそうな顔をしながら、それでも海はしっかりとした足取りで歩き出した。出逢ったころの面影は、もうどこにもなかった。すらりとした四肢こそ変わらないが、表情も、そしてしぐさも、彼女はもう立派なひとりの女性だった。 ここまではしてやれる。けれどこの先は二人で決めていくしかない。その場に他人はいるべきではなかった。プレセアは中庭を後にした。 城の回廊へ足を踏み入れたそのとき、一陣の風が鼻先を掠めた。思わず立ち止まり、そのまま何かに誘われるように振り返った。東屋で、クレフと海が向かい合っている。両手で顔を覆っていた海が、そっと手を取り、泣き笑った。彼女の頬を濡らした涙をクレフの指が拭う。彼の表情にも笑みが咲いていた。 あれほどたくさんいた蛍が、そのころにはもう一匹しか見えなくなっていた。その一匹も、やがて二人を残して東屋を離れていった。プレセアはふっと息をついた。闇に背を向け、人のいない回廊をゆっくりと歩いていく。もう二度と振り返らなかった。 終わっていく想いと、始まっていく想いがある。その夜通信機に届いた夫からの「おやすみ」のメッセージに、プレセアは少しだけ泣いた。 蛍 完 |