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『年寄りの冷や水』



 それはほんの些細な出来心だった。


「もう少しいちゃだめ?」
 それとなく暇を促している私の涙ぐましい努力も知らず、上目遣いにこちらを見上げた海が遠慮がちにそんなことを言うものだから、からかってやりたくなった。確かに彼女といると話が尽きるということがなく、今も海はまだまだ話し足りないのだろうということは私とてわかっている。それでもやはり物事には限度というものがあり、また超えてはいけない一線というものがあり、そういったことを無粋に口にするようなことが憚られるからこそこうして暗に諭しているというのに、なぜ海はそんな私の配慮をきれいに無視して、こちらが必死に築き上げている砦を崩そうとしてくるのだろう。
 こちらばかりがどぎまぎさせられるのでは面白くない。私は椅子から徐に立ち上がると、無言のまま一歩、斜向かいに座っていた海のもとへ歩み寄った。
「……クレフ?」
 海が忙しなく瞬く。私は尚も無言で、海の正面へと廻ると、彼女を閉じ込めるように両方の肘掛けに手を置いた。


 互いの息遣いが聞こえるほど近くに海がいる。じっとその瞳を見つめていると、少しずつ、しかし確実に海の頬が朱に染まっていくのがわかる。
 そんな表情を見ているだけで落ち着かなくなる己の鼓動を知った時点で、私は負けを認めるべきだったのかもしれない。だが妙にいたずら好きな性格が災いし、私は一歩踏み込むことを選んでしまった。私は片方の腕を持ち上げると、海の髪をそっとひとふさ手中に納めた。
「そんなことを言っていいと思っているのか」
「え?」
「互いを想い合う男女が一つ屋根の下に二人きりでいて、何もないとでも?」
 はっと海が目を見開いた。この距離だから、どんな些細な変化も見逃さない。明らかに緊張を走らせた海に気をよくし、私は彼女の髪をもてあそんでいた手を頬へと伸ばした。
「こうして触れ合っているだけで満足できなくなったら、どうする?」
 指先が頬に軽く触れただけで、海はぴくりと肩を震わせた。じっとその覗き込むようにすると、まるで私の視線から逃れるように海はぎゅっと目を瞑った。長い睫毛が小さく痙攣する。私は頬に触れた手をそっと鎖骨まで滑らせた。くっきりと刻まれた影が妙に艶めかしい。それ以上触れていると本当に歯止めが利かなくなりそうで、私はふっと笑みをこぼすと、海から手を離した。
「わかったら、もう部屋へ戻れ。また明日来ればいい」
 そう言うと、私は海に背を向け、飲み干されたティーセットを片付けようとテーブルへ手を伸ばした。ところが思いがけずローブの端を引かれ、伸ばしかけた手が中途半端に空を切った。


 何事かと振り返ると、海が私のローブをつかんでいた。俯いた彼女の表情は伺えない。ただ、私のローブをつかんだ手も、膝の上にあるもう一方の手も、どちらも白く筋が浮かぶほどに強く握られていることだけははっきりとわかった。
「――いわ……」
 呟かれた言葉はまったく聞き取ることができなかった。「なに?」と問えば、海は私のローブをつかんだまま、ためらいがちに顔を上げた。
「何されても、いいわ。あなたになら」
 迷いを帯びた表情とは裏腹に、声色は驚くほどしっかりとしていた。だから聞き間違うことなどできなかった。私は言葉を失った。


 その名のとおり深海を凝縮したような瞳が、恐れることなく真っすぐに私を射抜く。激しい眩暈に、地を踏みしめている感覚がない。海の言葉が真実であればいいと思う一方で、冗談であってほしいという願いもあった。相容れない二つの思いが私の中でせめぎ合い、濁流となる。私は決死の思いで理性をフル動員し、海の手をローブから剥がすと、その手を膝の上へと戻してやりながら彼女と向かい合った。
「だめだ」
 そしてやっとのことで言葉を搾り出した。
「軽はずみでそのようなことを口にするな」
「軽はずみなんかじゃないわ」
「おまえは事の重大さをわかっていない。故にそのようなことが言えるのだ。これを軽はずみといわずになんと呼ぶ」
「わかってないのはあなたの方よ。私がどれほどあなたに触れてほしいと思ってると思うの?」
 そう啖呵を切られて、咄嗟に返す言葉が浮かばなかった。


 背筋をだらだらと汗が伝う。これは誘われているのか、それともからかわれているのか? しかし心の中で思っただけのその疑問に答えてくれる者などいるはずもない。目の前には緊張の塊のような沈黙が横たわっている。それを打ち破る義務は明らかに私の方にあった。しかし果たしてどのようにして打ち破ればいいのか、まったく手がかりが見つからない。
「クレフ」
 ぐるぐると廻り続けるかに思われた私の意識は、突如現実へと引き戻された。いつの間にか海の両腕が私の首の後ろへと廻り、ふわりと彼女の香りが鼻を掠めたかと思うと、熱い吐息が私の頬を、そして耳を撫でた。
「焦らさないで」
 その瞬間、方向を定められずうごめいていた濁流が、ひとところへと向かって一気に流れ出るのを感じた。
 ええい、ままよ。
 私は海の手を問答無用に引き剥がし、彼女を椅子に押さえつけた。はっと海の目が見開かれる。その瞳に一瞬走った色は、怯えだったようにも、隠し切れない欲望だったようにも見えた。


***


 海が帰った後、一人残された私は、彼女の気配が完全に遠ざかるのを待ってから盛大なため息をついた。まるで全身という全身に溜まっているものをすべて吐き出すような気持ちだった。何をしたわけでもないのに、経験したことがないほどの疲労感に襲われていた。
 どくどくと心臓が激しく脈打っている。間違いなく寿命が軽く数十年分は縮んだだろう。もうこんな思いをするのはこりごりだ。海がセフィーロへやってくるたびにこんなことを続けていては、とてもではないが身が持たない。今日はすんでのところで堪えたが、いつ箍が外れてもおかしくない。
 自業自得だということは百も承知だ。金輪際、海を下手にからかうのはよそう。夜空に浮かぶ一番星に、私は心の底からの誓いを立てた。


 それにしても。
「若さとは、恐ろしい……」
 思わずこぼれた呟きに、海との年の差を感じずにはいられなかった。






年寄りの冷や水 完





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