ルグドゥヌムの戦いについて 今回の更新は、本当に凄惨な場面が多くて申し訳ありません。社R指定は主にここの戦闘の描写につけていたものです。 しかしながら、これは作者の演出ではなく、ほとんどが史実をもとにしています。 とはいえ、私が調べた範囲では当時の史料はそれほどなく、誇張されているものもあって、果たして、どこまで正確であるかどうかの裏づけは取れていません。 また、私がウェブで接することのできた資料の多くが英語で(フランス語もありましたが、読めません)、かなりの想像をまじえて翻訳したところもありますので、そのあたりはご了承いただけるようお願いします。 ルグドゥヌム(リヨン)のフルヴィエールの丘。円形劇場、神殿、バシリカ、官邸などがあり、当時はきらびやかな黄金や大理石で彩られていた。 それらの史料によれば、ルグドゥヌムの戦いはローマ軍同士が激突した内戦の中でも、最も凄惨で最も血塗られたものでした。 たえず蛮族との戦闘にさらされている、精鋭ぞろいのブリタニア軍団とドナウ軍団。 双方の戦力はほぼ互角で、そのため、戦いは二日間にわたって続きました(当時の戦いは、普通ほとんどが数時間で終わったそうです)。 アルビヌス軍は、左翼が突出し、右翼は持ちこたえて、セウェルス軍を罠に引き込む作戦に出ました。 苛立ったセウェルスは、みずから親衛隊とともに突撃して、戦場の真ん中に取り残されました。そのとき、セウェルスは皇帝のマントを臣下のひとりに着せて囮にし、危うく難を逃れたと言われています。 結局、セウェルス軍の優秀な騎馬隊がアルビヌス軍を撃破し、戦いはアルビヌス率いるブリタニア側の敗北に終わりました。 平野は馬と人間の死体で覆われ、死体の多くはばらばらの肉片となり、血が川となってローヌの流れにそそぎこみました。内戦は、勝者敗者ともに、いや、ローマ帝国全体に大きな打撃を与えたのです。 それ以降、セウェルスは、反対する者を容赦なく廃する軍事独裁政権へと突き進みます。 当時のルグドゥヌムの町の模型。ローヌ川とソーヌ川が交わり、港町として栄えた。 参考資料・図表: Wikipedia(English Version) UNRV History The Roman Empire; War with Clodius Albinus 歴史的事件と月齢 今回は、もうひとつ裏話を。 このお話のように、歴史上の大事件をもとに描いている場合、フィクションだからといいかげんには描けない情景があります。 たとえば、今回のように、月が重要な役割を果たしている場合。西暦197年2月19と20日の南フランスの月齢がわからないと、書けないと頭をかかえました。 それが、ちゃんとわかるサイトさまが見つかったのです。 月齢、月食、惑星食 紀元前1000年から西暦5000年までの日時と世界の地名を入力するだけで、月齢を計算してくれるというシュミレーターが設置されています。 これによれば、ルグドゥヌムの戦いの夜は、確かに満月(ただし、天気が晴れかどうかはわかりません)。 歴史小説書きには、なんとも頼もしいサイトさまです。 |