使用人対元使用人
このところずっと、仕事が立て込んでいた。だが、その晩だけふっと、為すべき仕事も片づけるべきタスクも、なかった。一人だった。くわえていた煙草を消した。
「行く、か――」
そうつぶやくと、男はガレージに向かった。
数日を要した出先での役目が終わり、久しぶりに自室に戻った。その晩だけふっと、ぽっかりと予定が開いていた。体のどこかが、うずいていた。スカートを脱ぎ、ジーンズを履いた。パンプスではなく、スニーカーを履いた。
「呼ばれている、気がしますわ。」
そうつぶやくと、女はガレージに向かった。
一台のインプレッサCBA‐GRBが首都高に上がる。とりあえずは行儀よく、左車線を走行していく。獲物を待って息を潜める獣のように、静かに、ただそこに、時速五〇マイルで佇んでいる。空荷のタクシーもようやく空いてくる、そんな時間帯。
分かっていた。こんな、妙にざわつく夜にはあいつが来ると。
この場所で待っていれば、必ずあいつが追ってくると。
ボンネットの下のBOXER4が、まるで喉を鳴らすネコ科の大型獣のように機嫌よく、静かに声を上げている。やがてその、秘められた能力を解放するときを、待っている。
一二分ほどでC1内回りを一周する。
さらに、もう一周。
もうそれは、一つの約束だった。
来た。
これまで何度も間近に見たあの黒い獣が、姿勢を低く屈めてそこにいた。
飢えていた。内臓を置き去りにするような加速度と遠心力に、飢えていた。自らの肉体を撓ませるGの洗礼を、渇望していた。五点式ハーネスの軽い拘束感と減速時の圧迫感。それすら、彼女には待ち望んだ一つの福音だった。
待ってて。今、行くから。
自然と、笑みが浮かぶ。リアタイヤがきゃきゃっと声を上げる。
踏みすぎだって?――上等。
サディスティックなまでの衝動が立ち上がる。
一瞬のクラッチ。跳ね上がった回転数をそのままパワートレインに繋ぎ直してやる。
愛機FD3Sが淫らに腰を振る。
体の芯が震える。
そしてトラックと一般車両の向こう。
見えた。
一気にあいつのテールランプに食らいつく。
圧倒的な予定調和の中、バトルが始まる。
弾かれたように加速するインプレッサ。
それを悠然と追尾するRX7。
睦み合う、二台だけの世界。
種々雑多な車両をかき分け、わずかな車間を縫いながら、繋ぎ目だらけの路面と不規則な合流が続くC1を、漆黒の二台が行く。歌うようなエグゾーストと、泣き叫ぶようなスキール音を残して、まずは平均七五マイル超のレンジへ。FDが前になり、インプレッサが抜き返し、路肩まで使い、併走したまま6号との分岐に飛び込む。上になり、下になりして昂め合う二人のように、二台の軌跡は絡み合う。
五号、四号、三号との分岐、合流、まばらな明かりの黒々としたビルの谷間。すべてはほんの、一息のあいだ。狭隘なコーナー、トンネル、短いストレート、車線を分かつ突然の橋脚。何でもありのC1のほんとうの姿を、今、二台が削りだしていく。
それは、狂気。それでも踏んで先に行こうとする者を誘う、甘い悪意。もっと踏みたいと、もっとここで歌い上げたいと願わせる、性悪な誘い。
二台は、周回を重ねる。
愛し合う勝ち気な二人が、自分より一瞬でも早く相手を果てさせようとするような、そんな熱心さで、二台はせめぎ合う。C1の狂気を抑え込み、自らの理を刻み付け、少しでも先の空間を占めようとする。
だがやがて、たぎっていたものがふっと、こぼれてしまうときが来る。
最後はいつも、決まっていた。
どちらかがもう、踏み切れないと判断したとき。
マツリの終わりはいつも、同じだった。
東京タワーが左手に見えた。
湾岸線へ。クールダウンするように二台はただ流していく。
無言――。
ただそれだけの逢瀬。それだけの邂逅。
車を止めて語り合うことも、馴れ合うこともなく、ただ暗く歪んだ余韻だけを漂わせて、二台は秘め事の舞台を後にする。
夜明けにはまだ遠く、決着をつけるにはまだ早すぎた。
教誨師の知らない、二人だけの夜。
すべてはまた、いつかのステージへ――――