ゴンッ!
 部屋に響いた鈍い音に、私は思わず顔を上げる。
 竹簡から視線を外し、音がした戸口の方を振り仰げば…、案の定、1つ年下の友人はくしゃくしゃと青い髪を掻きながら、すぐ目の前にある木の梁を見つめていた。
(おやおや……)
 今の今までともに課題に励んでいたのだから、寝ぼけた訳でもないだろうに。
 自分の状況をまだ把握していないのか、彼はまだ呆然と梁を見たまま動かない。
 見開かれた金色の瞳は、何だかやけに幼く見えて、私はつい、低く喉を震わせた。
「風早、君はまた背が伸びたのではないですか?」
 そうして、立ち尽くした背に向かい、楽しげにそう呼び掛ける。
 すると風早は、ようやくこちらを振り返り、一つ小さく肩をすくめた。
「そう…かな。自分じゃよくわからないんですけどね」
 そうして彼は、困ったように金色の目を細くする。
 私はそんな友人を見上げ、おもむろに首を擡げた。
「ええ、伸びましたよ。実際、少し前までは、身を屈めることもなく、そこを通れていたでしょう?」
「そう言えば…」
「それに、気付いていなかったのですか?以前は私と君の目の高さは、さして変わらなかったのに、今では明らかに、私は君を見上げている。それが何よりの証拠です」
「柊…」
 言葉尻で意味あり気に目を細めれば、風早は戸惑ったように私を呼ぶ。
 そして彼は、青い髪に自身の指を差し入れながら、また視線を脇にある梁へと移した。
 まるで、改めて自分の目線と梁の高さを比べようとするように。
 と、刹那。
 ーガタンッ……!ー
 反対側から、やや乱暴に椅子を引く音が響く。
「……?」
 私達が同時にそちらを振り向くと、常日頃から難しい顔ばかりしている弟弟子は、ちょうど椅子から腰を上げたところだった。
「忍人?」
「立ち話をするのなら、そこを通してくれないか。俺は先に自室へ戻る」
 呼び掛けに、端的にそう答えると、彼はこちらを見ようともせず、ずんずんと歩き出す。
 そうして、戸口のすぐ傍までやって来ると、彼は一際厳しい目をして、傍らに立つ風早をじっと見上げた。
「…忍、人……?」
 睨むような青い瞳が持つ意味を全く理解出来ないらしく、金色の双眸がきょとんと大きく見開かれる。
 が、しかし……。
「……っ!」
 忍人は、結局それ以上何一つ言うこともなく、視線をすっと正面に戻して、きつく奥歯を噛み締める。
 そうして彼は、そのまま足早に、廊下へと出て行った。
「……」
 いつも張り詰めた空気を纏ってはいるが、今日のこれは、さながら一夜の嵐のようだ。
 とりつく島など、まるであったものではない。
 そうして彼が去った後、残されたのは、先程以上に呆然とした風早の姿だけ。
「忍人、どうしたのかな?」
 彼は、少年が立ち去った方向を見つめながら、独り言のように、そんな言葉を口にした。
〈……〉
 どうやら本当に、この友人は、まるでわかっていないらしい。
「まあ、多感な時期ですからね。君との身長差がまた開いたことが、同じ男として、きっと悔しいのでしょう」
「え…?」
「この一年で君はかなり背が伸びましたからね。差は開く一方ですから、無理もないと思いますが」
「……」
 席を立ちながら、助け船を出してみれば、予想通り、風早は露骨に驚いた顔をする。
「でも柊、忍人はまだ12歳ですよ。彼の成長期はこれからじゃないですか」
「ですから、そういう問題ではないのですよ。第一、私には忍人が君と並ぶ程の長身に成長するとは思えませんしね」
「それは……、そうかもしれないけれど」
 そこまで言うと、風早は途端、複雑そうに押し黙る。
(まったく、君は……)
 そんな友人を見上げながら、私は気付かれぬように、少し口角を持ち上げた。
 今目の前に立つこの友人は、聡明な印象とは違い、他人の感情の機微に対して、酷く疎い部分がある。
 最年少で師君の門下に加わった忍人が抱く、兄弟子への複雑な感情など、彼には理解出来ないのだろう。
 最も、私自身は風早のこんな部分を、かなり気に入っているのだけれど。
「本当に君という人は……二ノ姫のこととなれば誰よりも聡いというのに、どうしてこうなのでしょうね」
 私は、吐息とともにそんな言葉を吐き出すと、おもむろに友人へと近付いた。
 そうして、すぐ傍らから高い位置にある金色の瞳を覗き込む。
「柊?」
「風早…君に置いていかれるような気がしているのは、忍人だけではないのですよ」
「え…?」
 刹那。
 目の前にある双眸がまた戸惑いを湛えて揺れる。
 それと同時に、私は右手の指先で、彼の青い髪に触れた。
「…柊」
「…あまり私達を残して、一人で先へ行かないでください。…お願いですから」
 斜め下から、囁くようにそう告げれば、また金色の瞳はさらに大きく見開かれる。
「…どういう意味ですか?俺にはあなたが何を言いたいのか、正直理解出来ません」
 風早は、私をじっと見返したまま、硬い声で逆にそう問い返す。
 しかし私はそれに答えず、ただすっと自身の腕を引っ込めた。
「柊!」
「さあ、そろそろ行きましょうか。いつまでもここで油を売っていると、忍人か師君に怒られてしまいそうです」
 そうして、咎めるように呼ぶ声を、故意に無視して踵を返す。
 と、直後。
 後方から風早の深い嘆息の音が聞こえた。
「まったく…、本当に勝手なんですから」
 その呟きに、私の胸に不意に可笑しさに似た何かが湧き上がる。
(風早…)
 私は、背を向けたまま、さらに笑みを深くすると、また胸の内で彼の名を呟いた。
(まだいいでしょう…。どうせ、時の流れは止めることなど出来ぬもの。ならばせめて今だけは、友と過ごす穏やかな日々があってもいい。あなたにも、私にも、忍人にも…ね)
 そうして、口には出せぬその言葉を、静かに低く紡いで行く。
 友と過ごすこの時の尊さを、その先にある時の重さを噛み締めながら。
「柊」
 動きを止めた私に向かい、風早が不思議そうに名前を呼ぶ。
「いえ…、何でもありませんよ」
 しかし私は、後方を振り返り呆れ顔の友人に一つ小さく目配せすると、それ以上は何も言わず、ただ忍人に続いて、廊下に足を踏み出した。

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