若き帝の甘い溜息


 その日、京城の街では、晴れやかに建国式典が催されていた。
遂に揚州の民は、魏からの独立を宣言し、此処に呉を建国するに至ったのである。


華やかな典礼が催され、その間、皇帝として即位した孫仲謀は、
ひっきりなしに民衆の歓声を受け続けていた。
老いも若きも、男も女も、全ての民がこぞって、呉の皇帝となった孫仲謀の姿に熱狂していたのである。
無論、彼の婚約者たる花も例外ではなく。


そして、数々の祝典行事を恙無く終えた仲謀が、城内に戻ってきた時、
新たなる帝を祝福するように照っていた太陽は、既に西の彼方に傾いていた。
それでも尚、民衆の熱狂は一向に収まる様子がない。
それは、城勤めの文武官や、侍女達も同様であった。


特に、侍女達と来たら、……これでもか、というくらいの黄色い声で、
呉の若き帝に熱い歓声を送る。その言葉は、歓声というよりは、寧ろ熱烈な愛の告白にも似ていた。


「きゃあ、いらっしゃったわ! 仲謀さまぁー!」
「嗚呼、素敵! 仲謀様、此方を見てくださいませ!」
「ああん、目が合っちゃったぁっ」
「かっこいいっ! 仲謀様ぁぁぁ!」
「仲謀様!お慕い申し上げておりますー!」
「ああ、仲謀様! 大好きーーーー!」


既視感を覚えるその光景に、花は思わず眩暈を覚えた。
まるで空港に着いたスターと、それを出迎えるファンのような光景。
以前にも確かに目にした時はある。
ともすれば見慣れた光景、といえない事も無いが、
…笑顔で声援に応える仲謀の傍らに控えていた花の胸中は、
内心穏やかなものではなかった。


以前に、空港のスター状態の仲謀を見た時、
彼は花にとって、あくまでも同盟相手の君主でしかなく、それ故に、
斜に構えた視線で、その光景を生暖かく見守ったものだが……
今や彼女は、他でもない、孫仲謀の婚約者である。


(仲謀が皆に慕われるのは全然構わないんだけど…ていうかまあ、寧ろ喜ばしい事だと思うけど…
「お慕い申し上げてます」だの「大好き」だの言われて、こんなにニヤけた顔しなくてもいいのに…!)


穏やかな陽光と、微笑を絶やさない、若い帝の晴れ晴れとした貌とは裏腹に、
その婚約者たる少女の胸中には、重々しい暗雲が垂れ込めていた。


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「おい、花。お前、どうしてそんなに膨れてるんだ」
「膨れてなんていませんー」


漸く居室に戻って来た二人は、夜の宴が開始するまでの間、
束の間の休憩時間を共に過ごすことになった。
しかし、やっと二人きりになれたというのに、傍らの少女の顔はどうにも浮かない様子である。
というか、ぷりぷりと怒っているようにしか見えない。
記念すべき、この佳き日に、何故にこうも花が苛立たしげな表情をしているのか、
その理由を図りかねて、若き帝はひたすらに困惑していた。


「あのなあ。言いたい事があるなら、ちゃんと口に出せよ。
でないと、伝わるものも伝わらないぞ?」
「言いたい事なんて別にないもん」
「無いもん、じゃねえだろうが。なら、この膨れっ面は何なんだよ」
「いふぁふぁふぁ(痛たたた)! ふぁひふうほおー(何するのよー!)」


貝のようにだんまりを決め込む少女の様子に痺れを切らした仲謀は、
実力行使とばかりに、花の両頬を抓って、その真意を問い質す。
しかし、花はそれに負けじと、顔を背けてみせた。
あくまで白を切り通すつもりなのだ。
すると   それを察した仲謀の貌が、見る間に曇っていった。
哀しげな恋人の貌を目にした途端、花はおろおろと狼狽し始める。


「ご、ごめん、仲謀。折角のお祝いの日に、私、態度悪すぎたよね…」


恋しい人の悲しげな顔を見て、落ち着きを取り戻した花は、
しゅんと項垂れたかと思うと、その瞳に涙を浮かべながら、素直に謝罪の言葉を口にした。
途端に、仲謀の胸は、きゅんと甘い痛みに締め付けられる。
思わず、肩を落とす恋人を抱き寄せ、苦しい胸の裡を吐露するような切ない口調で、
花の真意を問い質した。


「祝いの日とか、そういうのは別にいいんだよ。
俺はただ、お前が悲しそうな顔してるのを見てるのが辛いんだよ。
お前が泣いてたら、慰めてやりたいし、
できればそれだけじゃなくて、お前に涙を流させる原因そのものを取り除いてやりたい。
…だから、言ってくれよ。お前は何でそんな顔してたんだ?」


真摯な仲謀の問いに、花は思わず言葉を詰まらせる。
つまらない嫉妬に胸を焦がしていた自分が、ひたすら恥ずかしかった。
仲謀は、こんなに自分の事を想っていてくれるというのに。


「なあ、言えよ。何か辛い事でもあったのか?
俺には言えない事なのか?」


矢継ぎ早に尋ねられて、花は思わず涙を零す。
できれば、言いたくは無かった。
こんなに深い愛を差し向けてくれる人の笑顔を、
つまらない嫉妬で曇らせてしまっただなんて。でも。


(きっと、隠し事する方が、良くないよね。
…本当は、こんなにみっともない自分を、曝け出したくは無いけれど…)



花は観念した様子で大きな溜息を零すと、
ほろほろと涙を零しながら、苦しい胸の裡を訥々と語り始めた。


「ご、ごめん。仲謀。私…私、やきもち妬いちゃってた、だけ、なの。
綺麗な女官さん達が、仲謀の事、大好きーとか言ってて、
仲謀は、にこにこしながら、それに、答えてて…うぅぅ…っ」


言葉にすればするほど、悲しかった気持ちが蘇ってきて、
それと同時に、取るに足らない事に悋気を起こしていた自分の狭量さが恥ずかしくなって、
花は溢れる涙を最早堪える事ができず、しゃくりあげ始めてしまった。


「こんなつまんない事、で、おめでたい日に怒っちゃ、って…っ、わ、私、自分が恥ずかしい…っ。
本当、ごめんなさ、仲謀…っ。あ、の、そ、即位、おめ、でとう…っ」
「ああ、もう! 泣くなよ! 畜生、泣くな!」


腕の中の少女は、大粒の涙を零しながら、
あまりにも、いじらしい事を言う。
『やきもちを妬いて、ごめんなさい』なんて。
そして、尚も涙を流しながら、精一杯の笑顔を取り繕って、
『即位おめでとう』なんて。


ああ、この少女は、どうしてこうも、
可愛らしくて、ひたむきで   


あふれんばかりに愛しさが込み上げて、堪らなくなって、
……気がついたら、仲謀は、しゃくりあげる花を、力いっぱい抱き締めていた。


「お前、ふざけんな。…くそっ、可愛すぎんだろ」


仲謀は、思わず吐き捨てるように本音を零すと、
嗚咽する花の顎に手を掛け、無理矢理上向かせて、震えるくちびるに強引に口づけた。

「んん…っ、仲、謀…っ」


込み上げる嗚咽も、溢れる悲嘆も、全てを包み込んでやりたい、
その一心で、深く深く口づける。
酸素を求めるように花が喘ぐと、それをも飲み込むように、震える口びるを塞いだ。


愛しかった。
こんなにも、この少女は自分の事が好きで、大好きで。
だから、護ってやりたい。ひたむきに差し向けられる想いに、応えたい。


だって、
……愛しい少女にこんなにも愛されて、今、自分は本当に幸せだから。
世界中に喝采したいくらいに、幸せだから。


こんな気持ちがあるなんて思わなかった。
少し前までは、剣の相手も務まらない女なんて、相手をするのも面倒だと思っていたのに。
嫁取りの事を考える度に、君主として、妻を娶らねばならないのは仕方がないが、
正直億劫で仕方がない…などと、頭を悩ませていたくらいなのに。


今、猛烈に欲しい。
こんなにも愛しい彼女の全てが。心も、身体も、全てが。
だって、自分はこんなに花を愛していて、…花も、自分の事をひたむきに愛してくれている。
確かめ合いたい。言葉だけでは足りない。……


「ああ、もう! これで終わり! 終わりだ! だからもう、お前も泣くな!」
仲謀は、唐突にそれだけ告げると、
乱暴に花の身体を引き剥がし、そのままくるりと背中を向けてしまった。


「え、何? 仲謀、どうしたの? 私の事、嫌になっちゃった?」
優しく口づけてくれていた恋人の突然の豹変振りに
不安に駆られた花が、首筋まで真っ赤に染めた恋人の背中に向かって、思わず問いかける。、


すると、当の仲謀は、花に背中を向けたまま、
「そんなんじゃねえよ!」
とだけ乱暴に言い捨てた。
そのままだんまりを決め込む予定だったが…


怒っているのか、怒っていないのか、
それすらも判りかねて当惑する花の気配を背中越しに感じて、いたたまれなくなり、
仲謀は、愛しい少女に背中を向けたまま、ぽつりぽつりと心情を語り始める。


「…お前の事、嫌になんてなる筈ねえだろ。
俺はお前が好きなんだよ。いい加減わかれよ」
「じゃ、じゃあ、どうして…」


怪訝そうに投げかけられた問いかけに、
仲謀は思わず頭をかきむしる。
どうしてこの女は、こうも鈍感なんだ!と、心の裡でぼやきながら。


「これ以上お前に触れてたら、…我慢が効かなくなるんだよ!
いい加減判れよ、畜生…」
吐き捨てるように告げた、本当の気持ち。
それは出来れば口にしたくはなかった、男の本音というやつで…
仲謀は花に背中を向けたまま、あまりのいたたまれなさに、膝を抱えて、顔を伏せてしまった。


刹那、背中にあたたかいものを感じて、
仲謀の胸はふたたび、甘苦しい痛みにきゅんと締め付けられる。
花が、仲謀の背中に縋りついて来たのだ。


「な…っ、お前、俺の言う事聞いてんのかよ!」
「うん、聞いてるよ。…仲謀、ありがとう。大好き」


花がもたれかかって来るせいで、背中が燃えるように熱い。
触れていると我慢が効かなくなる、と言っているのに、
この女は…。
心の裡でぼやいてはみたものの、振り払う気になどなれる筈も無く。


だって、愛する少女の温もりはこの上なく心地良くて、幸せな気持ちにさせてくれる。
手放せる筈がないのだ、こんなあたたかいものを。


「わ、わかりゃいいんだよ。俺は立場上、愛想笑いを浮かべなくちゃいけない時も多い。
けどな、お前は俺様の思いを信じて、笑ってりゃいいんだ。わかったか!」
「うん、わかったよ、仲謀」


くすくすと笑いながら、花は尚も、若き帝の背中に縋りつく。
温かな吐息に背中を擽られて、仲謀はまんじりとしない気持ちになってきた。
……ありていに言えば、我慢するのが、この上なく辛い。


「あ、そうだ。じゃあ、仲謀も信じてくれる?」
「ああ?何をだ?!」
「あのね、仲謀に憧れてる女の人は沢山いるんだろうけど、
この世界で一番仲謀のこと好きなのは私なんだからね!」
「な…っ、何言ってるんだ、お前」


甘い痛みが、仲謀の胸を締め付ける。
どくん、と高鳴って、きゅっと締め付けて。
ああ、この女は、この期に及んで何を言い出すんだ。


「『仲謀様大好きー!』なんて言ってた女官さんの、
百倍は私の方が仲謀の事、大好きだよ。
だから信じて。世界で一番仲謀に恋してるのが、私だってこと」
「な…、お前、いい加減にしろよ!」


仲謀は、もう我慢ならない、とでも言いたげな乱暴な口ぶりで言い捨てると、
くるりと花の方を振り返った。
そして、
「おい、やっぱりもう一度口づけさせろ」
言うなり、花の身体を強引に抱き寄せる。


「え?! 触れてたら我慢が効かなくなるって、さっき…」
「うるせえ! お前がいちいち可愛い事言うのが悪いんだよ!」
「だ…、んんんっ」
尚も何か言い返そうとした花の口びるを、仲謀は強引に塞いでしまった。
噛みつくような口づけは、少女の言葉を容易に遮り、封じてしまう。


その時、彼女が何を言おうとしたのか、
…その言葉は、深い口づけと、合い間に零れる甘い吐息の中に溶けて、
若き帝の知る由も無く。


【Fin】

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拍手お礼SSって、本来はもう少し短くあるべきなんでしょうか…。
ちょっとした散文のつもりが、すごく長くなっちゃいました。
此処迄ご覧下さった方、本当にありがとうございます!
その内、仲×花も書いてみたいなあ、と思い、
試験的に設置させていただきました。
もし宜しければ、感想などお寄せいただけると、とても嬉しいです。

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