橙子が酔い潰れた後、誉が寝室から出てリビングへ向かえば、楽しげな気配を隠そうとしない日下部が入ってきた。

「あれ、水谷さんはどうされました?」
「酔い潰れた」
「えー、そこは押し倒すところでしょう!」

 グフグフと笑いをこらえる日下部をギロリと睨みつけ、誉は不機嫌そうにソファへ腰を下ろす。

「ちょうどいい、飲んでいけ」
「いえ、車で来ておりますので」
「代行を呼ぶ」
「ありがとうございます! じゃあ、西村さんも呼んでいいですか?」

 西村は帰宅したわけではなく、誉たちが使ったグラス類を片づけるため、ゲストルームで待機しているという。それを聞いた誉は頷いた。
 彼がこのように酒の相手を求める機会はそこそこ多く、その時点で労働時間は終わると使用人側も承知している。
 日下部に呼ばれた西村は笑顔でやってきた。

「まあまあ、ありがとうございます誉様。何かおつまみをご用意しますので、お先に飲まれていてください」

 と、言い置いていそいそとキッチンに向かう。日下部は新しいワイングラスや皿を用意しつつ、もう仕事は終わりとばかりに西村とお喋りを始めた。

「いやぁ~水谷さんが素直に帰ってきて良かったです。今日はずっと彼女の位置情報を追ってたんですが、例の男性とホテルに入ったらどうしようかとハラハラしてました」
「でも水谷さんはあまり乗り気ではないご様子だったから、その片想いの人にはそれほど未練はないと感じましたよ」
「おや、そうなんですか。――良かったですね、誉様!」

 わざと顔を背けている主人に声をかけたところ、彼は無視を貫いており反応を示さない。だが決して聞いていないわけではないと二人とも分かっていた。
 笑いをかみ殺す日下部がグラスやカトラリーを持ってリビングテーブルへ向かうと、彼はパニエに寝かせてあるワインを見てギョッと目を剥いた。

「え! これを開けたんですか? そんなに水谷さんがフラれたのが嬉しかったんですか?」
「……あいつが選んだんだ。本人は価値を分かっていない」
「でしょうねぇ。よりにもよってこれを選ぶとは。しかも1978年のヴィンテージ」

 苦笑を見せる日下部が自分のグラスにワインを注いで、さっそく味わった。

「うわー、美味しいですね。札束を飲んでいる気分です」
「他に言い方はないのか……」

 呆れた声を漏らしたとき、西村が美しい大皿を持ってやってきた。それには生ハムやピクルス、自家製のからすみ、数種類のキッシュなどなど、短時間で用意した割には色とりどりのおつまみが綺麗に盛られている。
 日下部がもう一つのグラスに赤ワインを注いだ。

「西村さんも飲んで。これ、一生に一度飲めるか飲めないかって代物ですから」
「ありがとうございます、いただきます」

 嬉しそうにワインを味わう西村に微笑み、日下部は誉の皿に料理を取り分けながら話しかける。

「で、水谷さんは妻役をやってもらえそうですか?」
「まだ分からん。あの子が承知したらうちの親に紹介する」
「やっぱり籍は入れないままで?」
「その必要はない。どうせ後継者問題が解決したらすぐに別れる」

 冷淡に言い切った誉だが、彼を見遣る二人の使用人は生ぬるい顔つきになり、「やせ我慢しちゃってぇ~」と心の中で囁いているのが丸分かりだった。
 誉もそれが分かっているのか、イラッとする顔つきになりながらも、ワインを飲むことで自分を抑え込んだ。
 そこで日下部が笑いながら宙へ目線を上げ、次いで主人の美しい瞳を見つめる。

「まあ、誉様はもともとオメガ嫌いですしね。でも妻役をこういったことのプロに依頼するのではなく、水谷さんにお願いするあたり、彼女と仮初めの夫婦になっておきたいと考えたんじゃないですか?」

 日下部は当てずっぽうで告げてみたのだが、沈黙する誉が気まずげに視線をそっと逸らしたので目を丸くした。

「あれ、当たっちゃいました?」
「……誉様って、意外とロマンチストなんですね」

 好き放題に言われて、苦虫を噛み潰したような顔を見せる誉は手のひらで双眸を押さえた。なぜこいつらは俺のことに関して、こうも鋭いんだろう、と。
 彼がうなだれている間も、主人に対して遠慮のない使用人たちは、どうすれば橙子を落とせるかと誉そっちのけで盛り上がっていた。



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