<Traveler> 
 
 
指先が、まるで最初から決まっていたかのように白いワイシャツの掛かったハンガーに伸びる。
首の分部をひょいと摘みあげ、引っ張り出した右手の上に別の右手が重なった。
 
「いいじゃないか、これで」
 頭の後ろで、軽いため息の音がする。
「享一。まさか今から、出勤するつもりなんじゃないだろうな?」
「会社はちゃんと有給とってるよ」
 なに言ってるんだ、と後ろを向くと翡翠の瞳とかち合った。
 瑞々しく生命に溢れた初夏の青葉を思わせる翠の瞳は、
有給獲得のための連日残業の疲れも吹っ飛ばしてしまうほどに清々しい。
 初めて出会った瞬間からこの瞳に、この瞳で自分を捕まえてくれた男に恋をしている。
 

「行き先は会社じゃないだろう?」
 ワイシャツはクローゼットの中の、一着2,980円の白ワイシャツの群れの中戻っていく。
「駄目かな?」
「長時間、飛行機のシートに座る事を考えれば、もっと伸縮性のある楽な服の方がいい」
 
 いまから旅行に行く。
 二人で、それも海外。

 仕事で世界中を飛び回る周と違い、大学の卒業研修旅行についで人生2度目の海外だ。
卒業旅行で自分が何を着たかなんて覚えていない。
たぶんヨレたTシャツとか、長袖のポロシャツだとか。
今の自分が考えても、「それはない」と言いたくなる代物だったと思う。

 洗練された動作で、長い指先がハンガーをより分け、享一の服を選ぶ。
 サックスブルーのシャツに浅い茶系のジャケット、ゆったりとした麻のトラウザー。
濃い目のベルトが全体をぴりっと引き締める。
 すべて、周が"グラマラス"で享一のために選びクローゼットに入れておいてくれるのだが、
シャツに1?2回袖を通しただけで、ほとんど着たことはない。
 1枚が自分の買ったスーツ並みの値段がする服たちを、どう着こなせばいいのか、
享一には難題過ぎるのだ。
一旦は手に取るものの、結局つい着慣れた大量流通の服に手が伸びてしまう。
 
 上級クラスの洒落た大人の旅行ウェアーを前に
気恥ずかしそううな顔で佇む享一に、周がいま着ているものを脱ぐように促す。
 享一の肩から、サックスブルーのシャツが掛けられ、アームホールに腕を通す。
 伸縮性を持たせた平織りの生地はさらりと肌に馴染んで、着心地がいい。

「本当に着心地のいいシャツだな」
「人間は人生の大半を服を着て過ごす。それなら、自分の身体に合ったものを身につけるほうがいい」
 もちろん、何もつけていない自然体が一番だと思うけどなどと付け足し、
ぎょっと顔を上げた享一に嫣然と微笑む。
そして、視線をシャツの間から露になった享一の胸から腹、そのまた下へと這わせた。
最後に漆黒の瞳へと戻してまた笑う。

 明るい朝の光の中。
 昨夜とはさかしまに、殊更ゆっくりボタンを留めてゆく指が、肌に残る昨夜の記憶をかき回す。
「周、まさか煽ってる?」
「とんでもない。折角取った休暇をこのペントハウスで過ごすのも悪くないが、
遠く離れた神秘の島のベッドで、享一と自然体で過ごすバカンスには替え難い」

 片眉を上げて笑い、享一の額にキスを落とし、顎に手を添え唇に接吻ける。
 すべて着せ終えると、少し離れて全身をチェックする。
 
「完璧なトラベラーの出来上がりだ。人に見せるのが勿体無くなるくらいきまっている」
・・・また。どうしてこの男は、こういうセリフを臆面なく言えるのだろう。

「行こう」
 そして、自分も差し出された手を当然のように取ってしまうのだろう。
 
 
 トラベルがトラブルになるのは、この少し後の話。
 
 空が秋の大気に高く澄む10月の朝、真っ赤なフェアレディは一路空港へと向かった。



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