それは、ある日常の「物語」
(全1種)

不完全故の完璧さ。
哲学的な視点においては、現実世界の物事はそもそも不完全であり、
不完全であることがそれらに美しさを与えているとプラトンは説いた。
美術的視点では、ウェイバーは不完全さや欠陥が美において重要であり、
美を生み出すものだと主張した。
“侘び・寂び”という日本の美における理念もまた同じで、
時間や人間の手によって変化するものや劣化するものに美しさを見い出す。
心理学的視点で言うならば、
ジョージ・ケリーのパーソナル・コンストラクト理論が有名だろう。
不完全さや曖昧さは人々が経験を理解し、美を見い出す上で重要な要素だと論じている。

いや、そんな理屈や理論などなくとも、
人の心は真に美しいものを前にしたとき震えるものだ。
それが不完全なものであれ、大きな欠陥があったとしても、
真に美しいものであれば心は動く。

(跪いて祈りを捧げたい、とさえ思ってしまう)

神を持たず、信仰もなく、そもそもそんな存在を信じてもいないというのに。
勇壮な景色を前に、壮麗な建築を前に、優美な芸術を前に、
言葉を失い瞬きすら惜しんでしまうのは、それが本物だから。
あぁ、綺麗だ、とハインリヒは窓辺に立つアルフレードの横顔に魅入った。

素肌にシーツを巻き付けただけの耽美な姿。
しかし、白く滑らかな肌はひどく清らかで。
蜂蜜色の髪と同じ色の長い睫毛に縁取られた瞳に宿る無垢な光はいっそ神聖さを感じさせる。
それほど真っ新に美しい。

だが、シーツに覆い隠されていない細い肩には生々しい歯型と鬱血痕が刻まれている。
ちらりと見えた腿にも、背中にまで。
精巧なビスクドールのようにシミも傷もない完璧だったはずの肢体を汚す欲の残滓。
それは身体の中にも残され、真っ白な紙にインクを垂らしたようにジワジワと汚していく。
もう二度と真っ白に戻せないと分かっていながら、分かっているからこそ。
汚してしまいたい、という感情を己の中に見つけ、ハインリヒは激しい罪悪感に襲われた。

(自分の醜さが嫌になる)

大切にしたい。
大切にしなければいけない。
誰かの背中に庇われることを良しとしない彼の心根の強さに疑う余地はないが、守りたいのだ。
少しでも綺麗な場所で、綺麗なもので囲み、綺麗なものだけを見ていられるようにしたい。
だと言うのに、実際はどうだ。
誰よりもどんなものよりも醜く汚れた感情を向けているのは他でもない、自分だ。
憎悪に近い感情が込み上げ、それを吐き出すように細く息をつく。

寝息とは全く違うそれは夜の静寂に支配された寝室の空気を存外に大きく震わせた。
窓辺に立っていたアルフレードの視線が徐にこちらに向けられ、
重なった視線に心臓が跳ね上がる。

「…エンゲル…」

天使、と。
口端からまろび出た単語に、アルフレードが緩やかに微笑む。
壮絶な色香が巻き上がり、頬にそよ風を感じたのは気のせいではない。
ふわり、と。
折りたたまれていた純白の羽根が、窮屈な地上を憂うように大きく開かれる。
だが、それは片翼で。
もう片方のそれがあるべき場所には淡い陰りが居座り、
完璧であるはずの光景に決定的な欠損を作っている。

「起こしちゃった?ごめんね」
「…アル」
「うん?なぁに?」
「アル、アルフレード…」

羽虫が光に誘われるように、ハインリヒは無意識にベッドを下りてアルフレードに近付いた。
そして、窓辺に佇む彼の身体を抱きしめる。

「ふふ、どうしたの?」
「飛んでいくのかと思った」
「オレに羽根なんてないよ」

あったとしても、もう飛べないように片方は捨ててしまったから。
この場所で生きたいから、もう翼はいらない。
そう続けて微笑んだアルフレードにハインリヒは心臓を直接握られたような衝撃を受け、
息を詰まらせた。
あぁ、本当にその言葉通りなのかもしれない。
本来持っていたはずのそれを自ら捨てたのだとしたら。
この窮屈な地上で生きるためにそう願って望んで祈って、捨ててくれたのだとしたら。

「月が眩しくて目が覚めちゃっただけだよ。大丈夫、オレはちゃんとここに居るよ」

もう翼なんていらない、と。
悠然と微笑むアルフレードにハインリヒは言葉では表せないほどの多幸感に胸が詰まった。
思うように息ができず、瞬きも忘れる。
何とか吐き出した息は微かに震え、喉を締め付けられているかのように声が出ない。
跪き、信じてもいない神に祈りたくなるほどの充足感。
それごと腕の中に閉じ込めてしまう。

「ふふ。苦しいよ、ハイン」
「……」
「ハインの目にはオレはどんな風に映っているんだろうね。
オレはあなたが思っているほど綺麗な生き物じゃないよ」

傷だらけで、心には酷い凍傷や火傷のような痕が深々と残っている。
一度欠けて壊れてしまったそれはもう元の形には戻せない。
世界を、運命を、人を恨んだこともある。
天使のように完璧な愛や慈悲を持った存在じゃない、とアルフレードは言う。
あぁ、だからこそなのだ、と改めて思う。

(両腕を失った女神像がそれでも美しいように…いや、だからこそ美しいように…)

完璧なものは美しい。
だが、生々しく、人間臭く、血反吐の匂いがするものはもっと鮮烈で、苛烈で、
閃光に似た光を放つ。
たとえ汚れていようが、壊れていようが、致命的な欠損があろうが関係ない。
足りないことに対する同情や憐憫ではなく、敬意や憧憬に近い感情が込み上げてくる。

「夜が明けるのはまだ先だから、もう少し眠ろうか」

朝食はバルコニーで食べよう、
午後はピクニックバスケットを持って庭園に行こうか、
旧市街地を散策するのもいいね。
きっと良い1日になるよ、と楽しそうに語るアルフレードに促されるままベッドに戻る。
身体に巻き付けられていたシールがするりと落ち、彼の白く滑らかな肌が眼前に晒された。
忌々しいほどくっきりと刻まれた鬱血痕と歯型の数に罪悪感と独占欲と優越感が鬩ぎ合う。
だが、軍配はどれにも上がることはなく、
混ざり合ったそれがドロドロとした淀んだ感情となって居座る。

「それとも、このまま2人で朝を迎える?」

色香を含んだ声音にハッと意識を引き戻され、ハインリヒは心の中で白旗を掲げた。
意図して、あえて嫣然と微笑むアルフレードの手に肩を押され、
ベッドヘッドに積んだクッションに背中を預ける。
腿の上に跨って来た彼の口端は艶やかな弧が描かれており、喉の奥が低く鳴ってしまう。

「あなたのことを無表情だって言う人たちはどこを見ているのだろうね?
こんなにも素直なのに」
「…アルの前で取り繕う必要はないからな」
「そうだね。オレはあなたのことなら何だって許すから、それでいいんだよ。
それが、いい」
「……あまり俺を許し過ぎないでくれ。タガが外れて何をしでかすか分からない」
「いいよ。もっと痕を付けて。ハインのものだって刻んで。
身体の奥にも、心にも、全部に」

足りない場所を満たして。欠けてしまった場所を埋めて。失ってしまったものは分けて。
不完全なこの命はもうあなたが居ないと息もできないから。
キスをしよう、とねだられるまま唇を重ねれば、
心臓を締め付けるほどの多幸感が再び押し寄せ、目の奥が熱くなった。


*12の記念日*
4月8日「ヴィーナスの日」
1820年にエーゲ海のメロス島の農夫がヴィーナス像を発見した日。

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