今日は死ぬのにもってこいの日



にいさん。
そう呟いた声が届いたかなどわからない。
長く出していなかった声は掠れた。それでも、必死の思いで音の形になる。
重い躯。こんなに細くて、こんなに小さいのに、思うように動かない。
慣れない操り人形を動かすように、ゆっくりと力を入れる。
響く鼓動。止まりそうな呼吸。吐き気。息ぐるしくて、痛い。ずっと忘れていた記憶を引っ張り出す。
触る。見る。聴く。息を、吸う。吐く。
動く視点。
灰色の床を見る。大きくて、書くのに何日もかかった錬成陣、床と同じ色の天井、はめ殺しの窓。

に、い…さ、…ん。

今度は前より少しは声らしいものが出た。
いろんなものが、脳裏をよぎる。流れ出した扉の向こうの記憶に思考が止まりそうになって、はじめて手を握られていることに気付いた。躯がずいぶん冷たいことに気付く。ぐっしょりと濡れている。肌に触れる赤、左腕に金属の感触。
あたたかい。


いたいほどに。それでもその腕は緩まない。大きくて、傷だらけで、強がりで、いじっぱりなそのからだが、小さく震えている。耳にかかる息。



「アル。……アル、良かっ…た、やっと、」



繰り返される名前。
その声で囁かれるのが一番好きだった。
もう随分長い間、あなたしかボクを呼ばなかった、唯一ボクをボクたらしめる標。
溺れないための一本の糸。



あなたの腕を、取り戻せなかったのが哀しい。
それはボクの魂と引き替えに失われたもの。
でも今はそれ以上に、この身体に戻れて嬉しい。
ずっとあなたを支えたかった、もっと確かな存在でもって。
幽霊のような、いつどこへ消えてしまうともわからないものではなくて。
ただ触れて、抱きしめたかった。そして言いたかった。身体も心も本当に、あなたがボクであると認める存在で。
ありがとう、愛している、と。
我が儘かもしれない、間違ってるかもしれない、でも、ボクがボクであるために必要なのはあなただった。あなただけだった。だからこそあなたのためにアルフォンスでありたかった。

嫌なもの、苦しいもの、全てを再び手にしても。ただあなたのためだけに。



ぼんやりと霞んできた視界を揺らし、瞬きをする。
一つ一つの感覚を掴まえる。きつくきつく痛いほどに抱かれている、腕のなか、ゆっくりと目覚めていく。
少しずつ実感が沸く。

人間であること。

じんわりと、穏やかな歓びが胸に広がっていく。神がいないのならそれでもかまわない、ただ、大きな存在にありがとうと言いたい、死ぬまでに間に合って。良かった、もう、心残りなど無い、にいさん。
本当に、ただ、今はただ一言だけ、



「ありがとう。」

コメントを送る

※コメントに入力できる文字数は全角で最大1000文字です

※このコメントはサイト管理人のみ閲覧できます