「蒼の王国」番外編?ウェルディンギス?
「蒼の王国」番外編?ウェルディンギス?
「ウェルディンギス」
名を呼ばれてウェルディンギスはうんざりした顔で振り返る。
「何だ、お前か」
うんざり顔をされた上そんなふうに言われたウリエンは赤い髪を揺らして苦笑した。
「どうしたんですか、いつにも増して眉間の皺が深くなっていますよ」
「爺さま方が最近うるさくてな」
「ああ、縁談ですか」
分かっているなら皆まで言うな、と言わんばかりにウェルディンギスは苦虫を噛み潰したような顔をして背を向ける。
「どこへ行くんです?」
「少し出てくる。最近身体がなまって仕方がない」
ハルシュタットがラウムと交流を持つようになってはや一年。今年の春にウェルディンギスの妹姫はラウム正妃として嫁ぎ、ひとまず突貫で行われた灌漑工事のお陰でハルシュタットは何とか無事に夏を乗り越えた。今、ハルシュタットは実り多き秋を迎えている。
しかし先年大出兵した損失は大きく、どこも台所事情は豊かとはいえない。今やカドゥールだけでなく同盟した他部族との折衝に骨を折る日々が続く若き盟主は、心の疲労が募ると時々ふいと姿を消す時があった。
「いつまで経っても変わりませんね、うちの族長殿は」
子供時代から賢者の森に忍び入っていたことが思い出され、友人の背中を見送ったウリエンは小さく笑った。
ハルシュタットは緩やかな横の繋がりから、また変化の時期を迎えようとしている。
元々独立独歩な気質が根付いているハルシュタットの足並みを揃えるのは容易なことではない。未だ同盟に加わらず、むしろ山脈の向こうの異国と手を結んだウェルディンギス達に反感を抱き、不穏な空気を漂わせる部族もある。
一度文明開化へ向かい始めたハルシュタットを立ち止まらせるわけにはいかない。だからこそお互いの結束をより強める必要があった。
その方法としてもっとも有効で手っ取り早いのが婚姻だ。適齢期をとっくに過ぎても未だ独り身を通していたウェルディンギスが、真っ先に白羽の矢を立てられたのは言うまでもない。
候補として上がっているのはいずれも近隣部族長の娘や妹で、教養も申し分ない少女達だ。少々融通の利かない部分もあるが、抜きん出た容姿と強力なカリスマ性を持つウェルディンギスの妻になることを恐らくどの娘も誇りに思うだろう。
しかし当のウェルディンギスは面倒くさそうに縁談話を長々と引き伸ばしている。長として婚姻は義務と承知していても、この忙しいさなか女の相手で時間を割かれるのは馬鹿馬鹿しいとどこか思っているふうでもあった。
「さて、未来のハルシュタット王にどう納得させましょうか。星の位置から考えても、そろそろ頃合なんですけどね。ふふふ」
ウリエンは穏やかな微笑をたたえ、何やら楽しそうに呟く。長い付き合いの親友として、族長の相談役である樫の賢者として。予見された未来の道をさり気なく導くのが彼の使命ならば、ここは一つ策謀……いや気遣いをするのは至極当然のことだろう。
◇
ある日の夜半、ウェルディンギスは半ば硬直したまま廊下に立っていた。何故かと言えば、驚きのあまりどう反応してよいものやら分からなかったからだ。
視線の先にいるのは客間の戸を開け放して月を眺めているイゾルダだ。
同盟の盟主はウェルディンギスだがイゾルダはいわばムードメーカー的な存在で、元々気安い仲間同士ということもあり、立て込んでいる時は泊りがけで話し合いをすることも多い。
今日も日中様々な事案を検討し合い、後になって二、三言い忘れたことを思い出したウェルディンギスは酒壷を片手にやって来たのだが――。
イゾルダは黙ったまま外を眺め、その横顔は月明かりに照らされて白く浮き上がっていた。その頬に透明な雫が流れ落ちていたのだ。
――――イゾルダが泣いている?
基本的にウェルディンギスは女性に泣かれるのが苦手である。どう取り繕っても器用とは言い難い性格を自覚しているので、上手く接することができないことは分かりきっている。十代の頃は何故か村の娘によく泣かれ、苛々が募った挙句に怒鳴りつけて更に状況を悪化させるという愚行を何度も経験済みだった。
気がついたら勝手に泣かれ、みなには「お前が泣かせた」と言われる。別に女嫌いというわけでもないが、面倒くさいというのが先に立って自然と距離を取るようになったのはこの頃からだったかもしれない。
だがしかし、あのイゾルダが涙を零すとは。
ウェルディンギスはまるで雷にでも打ち抜かれたかのような衝撃を受けていた。イゾルダだけは何があってもその辺の女と同じように泣くことはないだとうと、根拠もなく思い込んでいたからだ。
ウェルディンギスは額に薄っすらと汗を浮かべ、己の可能な限り全力を振り絞って思考を巡らせる。
ここは何も見なかったことにして立ち去るべきだろうか。それとも気づかない振りをして足音などで存在を示し、始めの予定通り彼女と話し合いをするため部屋に入るべきか。
今までイゾルダとは全く余計な気を遣わず接してきただけに、ウェルディンギスの動揺は大きい。
そして散々悩んだ挙句出た結論は、一刻も早く、絶対に気取られないようにこの場所から立ち去ることだった。
敵前逃亡と言われようが何だろうが、ウェルディンギスにだって苦手なことはあるのだ。
翌朝、廊下でウリエンと鉢合わせした時に何故か笑われた。
「朝からどうしたんです、そんな顔をして」
「どんな顔だって言うんだ」
「そうですね……好物のハチミツにありついたと思ったら、他に不味いものが混じっていて不満そうにしている熊みたいな?」
「私は熊か」
「まあ、似て否なるものではありますが」
全く訂正になっていないウリエンの言いようにむっとした時、ちょうど向かいからイゾルダが歩いてくるのが見えた。ウェルディンギスは気づかない振りをしてその場を離れようとしたが、ウリエンにチュニックの裾を掴まれ出遅れる。
「おや、お二人さんおはよう。朝食を取ったらあたしは戻るつもりだけど、構わないだろう?」
全くいつもと変わらぬ様子でイゾルダは笑っている。昨夜見た光景は錯覚だったのではと思えるほどだった。いっそその方がウェルディンギスも余計な気を遣わずに済んで楽なのだが。
ウェルディンギスが答える前にウリエンが言った。
「ちょうど今夜カドゥールでささやかな収穫の宴をすることになっています。もしよかったら滞在を明日まで延ばしませんか?」
何と余計なことを。黙ってウリエンを睨みつけたが赤髪の友人は全く意に介さない。いや、しかしいつものことを考えれば、ウェルディンギスとて自ら気軽にイゾルダを誘っていただろう。あの涙さえ見なければ。
そうだ、ここで嫌そうにする方がかえって不自然ではないか。と気づいて口から言葉が滑り落ちる。
「楽しんでいくといい。最近あんたは働きっぱなしだからな」
「あんたほどじゃないけどね。うーん、それじゃただ酒をご馳走になることにしようか。じゃあ帰るのが遅れるって連絡を出すよ……うちの人間うるさいんだよ、そういうところ」
「族長と言えども女性ですからね」
「そういうもんかい?」
会話を遮るようにウェルディンギスは両者の間に立ちはだかった。
「行くなら早く行ったらどうだ」
「分かってるよ、全く朝から仏頂面下げて。ああ、アレシアが嫁いでから潤いがなくていけないねえ」
肩を竦めながら歩き去る後ろ姿を、男二人は視線で見送る。
何を思い悩んでいるのか知らないが、賑やかな場に出て気が晴れるならそれに越したことはないだろう。やぱりどこか複雑な表情をしたウェルディンギスは無言で頷いた。
自分も用事を済ませようと一歩踏み出した時、またしてもウリエンにチュニックの裾を掴まれる。
「さっきから何だ」
「それはあなたの方でしょう。長が迷いを抱えた顔をしていては、折角の宴も下の者は十分に楽しめませんよ」
もっともらしくそう言うと、ウリエンはいつもの微笑を浮かべた顔になる。
「それで、何があったんです?」
よく知らない者は聖者の微笑みと称えているようだが、実は無味無臭の毒を含む類のものだとウェルディンギスはよく知っている。はぐらかしてもどうせ最後には追求をかわしきれないと早々に諦め、素直に昨夜のことを話し始めるのだった。
何にも揺らぐことのない強い意思を持つウェルディンギスだが、嘘はつけないし隠し事も下手である。
それを「愛すべき弱点」と長年の親友に思われていることなど、本人は全く気づいてはいなかった。
◇
高く積まれた薪が燃え盛り夜の闇を照らし出す。
賑やかな音楽に合わせて踊る人々の輪。何とも楽しげな雰囲気は、今年大きな被害も出さずに収穫を終え、湿地が減ったことで獲物となる動物が戻ってきているからだろう。
一段高くなった場所からウェルディンギスはそれらを見下ろす。彼らの笑顔を見れば、いにしえの因習からみなの意思と力で勝ち取った自由な空気を守らねばという気持ちにさせられた。
だがしかし、と手にした器の蜂蜜酒を一口含んで飲み下す。
横目に視界に入る人物は先ほどから豪快に酒を飲み続け、いつにも増してご機嫌のように見えた。あっという間に一樽飲み干すんじゃないかという勢いだ。
「イゾルダ、余り飲み過ぎると明日帰る時に二日酔いで馬から落ちるぞ」
「大丈夫、あたしはエドゥイーのイゾルダだよ。酒の飲み方くらいわきまえてるさ」
その割にはまた一杯大きな杯を空にして下女に追加を依頼する。これのどこか「わきまえている」のか甚だ疑問である。
――――いいですかウェルディンギス。あなたは全然分かっていないようですが、強いように見えてもイゾルダは女性なんですよ。
今朝ウリエンに懇々とそう諭された。……同じようなことを妹にも言われたことがあるような気がしないでもないが。
イゾルダが女性だということくらい分かっている、と言い返したら「全然分かってない」と、過去アレシアが怒った記憶と相乗効果で二度怒られた気分だ。
どうして誰も彼もがウェルディンギスを責めるのだろう。大体当のイゾルダは男顔負けの飲みっぷりを披露しているではないか。きっと昨夜見た光景は自分の錯覚だったのだ、そうだ、すっきりすっぱり忘れてしまえばそれでいい。
色々と考えていたら段々腹が立ってきて、ウェルディンギスはそう結論付けた。
――――ちゃんとよく御覧なさい。本人は全く無頓着のようですが、イゾルダはハルシュタットの中でもかなりの美貌を誇る女性ですよ。分かっていないのはあなただけです。
娘の頃はエドゥイー一の美姫ともてはやされていたとか。もっとも、許婚を亡くすまでの話だそうですが。
折角考えを押しやろうとしていたのにまたウリエンの声が邪魔をする。
容姿が何だというのか。自分は今まで、過剰に着飾った女達に迷惑をかけられた覚えしかないぞとウェルディンギスは一人ふんぞり返る。
「大体何でそんなことまで知っているんだあいつは」
恐ろしいほどに情報通の友人は味方にすれば頼もしいが、一度敵に回すとやっかいである。何しろウェルディンギス自身のことは何故か何でもお見通しなのだ。
そんなことをぶつぶつ言いながら管を巻いていると、いきなり横に座っていたイゾルダが立ち上がる。
「よーし盛り上がってきた、あたしも踊る!」
と着ていたチュニックを脱ぎ捨てる。ウェルディンギスには、どうして「踊る」と言って服を脱ぐのかさっぱり分からない。いや、そんなことより問題なのはイゾルダの格好だ。
チュニックの下にもう一枚下着を着込んでいたから裸ではないが、胸元は大きく抉れて腹は丸見え、短い腰巻からは半分以上太腿が顔を覗かせている。何故今日に限ってズボンを穿いていないのか。
何やら不穏な空気を感じて周囲を見れば、男という男はみなイゾルダに熱い視線を送っていた。彼女に太刀打ちできる男は滅多にいないのであからさまに近づいたりはしないが、なるほど、こうして第三者の反応を見る限り、確かに自分以外はイゾルダの魅力にちゃんと気づいていたらしい。
「いいんですか、行っちゃいましたよ」
いつの間に背後へ現れたのかウリエンが下の方を指差す。振り向いてみれば、酔っ払ったイゾルダが大焚き火前の人だかりに参加しようとしているではないか。あの格好で。
「あの馬鹿」
ウェルディンギスの眉間に深い皺ができる。無言で立ち上がり、着ていたマントを外して手に抱える。
「待て、イゾルダ。そんな格好でうろつくんじゃない」
早足で後を追いかけ肩を掴んだ。マントを上から被せようとすると、イゾルダが首だけ捻って振り向く。
「おや珍しい、ウェルディンギスも踊るのかい」
「何で私が踊らなきゃならない」
するとイゾルダが背後に立つウェルディンギスにもたれかかった。鍛えていても、男とは違う柔らかさを持った感触に身体の奥で何かが粟立つのを感じる。
おかしい、自分は一体どうしてイゾルダ相手にこうも動揺し続けているのか。
不意にイゾルダの手が伸びてウェルディンギスの金髪を摘んだ。
「あはは、そういつも小難しい顔してるからみんなが怖がるんだよ。もっと笑わなきゃ」
「大きなお世話だ」
ウェルディンギスとていつも怒っているわけではない。生まれつきこういう顔なのだ、今更変えろといわれても困るというもの。そう考えた時に、ふと気づく。
「あんたは怖いって言わないんだな」
自然と口から漏れた言葉だった。こんなこと言うんじゃなかったとすぐに後悔したが、イゾルダは真っ直ぐウェルディンギスを見上げてにっと笑う。
「あたしを誰だと思ってるんだい、エドゥイーのイゾルダ様だよ」
「……なるほど」
何だかよく分からないままウェルディンギスは納得させられてしまった。
その後「やっぱり踊る」「いいから戻れ、せめて服を着ろ」と二人はせめぎ合い、最後は強引にウェルディンギスがマントでぐるぐる巻きにした酔っ払いイゾルダを回収する。
元の席に戻ってくるとウリエンがにこにこしながら出迎えた。何故かウェルディンギスにはその笑顔が居心地悪い。
「何が可笑しい」
「いいえ、別に」
「言いたいことがあるならはっきり言え」
マントで巻かれたイゾルダを肩から下ろしてウェルディンギスは腕を組む。
「いつもなら――」
「ウェルディンギス、水!」
ウリエンの言葉を遮るようにイゾルダが大声で割り込んだ。半分寝かかっているようで、目を閉じたままマントに頬を擦り付け何かうにゃうにゃ言い続けている。
「すぐに寝床を用意させるからもうあんたは寝ろ」
「先に水」
「だそうですよ、ウェルディンギス」
「……私に持って来いと言っているのか?」
しかし酔っ払いイゾルダは言い出したらきかなそうだし、ウリエンは早く行くように目で言っているのが分かる。何だかもうすっかり反論する気力さえ失くしてしまい、族長自ら水を取りに建物の方へ消えて行くのだった。
それを見送ったウリエンにイゾルダが眠そうな声で話しかける。
「ねえウリエン、昨日くれた試作の虫除け香なんだけど」
「ああ、どうでした? 従来のものより少し配合を変えてあるから煙は少なく済んだでしょう」
「まあそうなんだけど……何かあれ、煙は殆ど出ないのに目がやたら浸みてさ。変なもの入れたんじゃないの、涙が出て……しかた……ない」
「そうですか、じゃあもう少し配合を考える必要がありますね」
とウリエンが言った時にはイゾルダはすやすやと寝息を立てている。
彼女はかつて、「誰にも頼らずに生きて行く」と族長である父に宣言したという。だから自分を次代の族長にしろと。
そのイゾルダが晒す何とも無防備な寝姿は、ここがウェルディンギスの領地だからに他ならない。
「さて、まだこれからですか」
――いつもならイゾルダの服がはだけようと全く気にしなかったのに、今日はそうではないのですね。
当人に言いかけた言葉を改めて伝えれば、きっと顔を真っ赤にして怒りだすことだろう。
有力な一族同士が統合され、ハルシュタット一大きな部族が誕生するのはもう少し先の話である。
それを足掛かりに全てのハルシュタット統一を成す、王と共に戦う后が誕生するのも――また然り。
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